転機となった競技時代

皆さん、スキー映画「躍動」で紹介されている競技時代を振り返ってみます。

秋田のY高校から東京のC大に入り競技を続けていました。大学3年までインターカレッジではそこそこの成績でしたが日本のトップクラスとは差がありました。1972年札幌冬季オリンピックを目指していましたが、選考会で1度2位になっただけでオリンピック代表にはなれませんでした。

オリンピック後の国内大会は好調で上位をキープすることが出来、当時のスキーメーカー「カザマ」から選手契約のオファーを頂き選手を続けることが出来ました。

転機となったのはカザマがヨーロッパに2ヶ月間のトレーニングを与えてくれた時です。私とM君、日本のコーチT氏3名でオーストリーに行き、地元のコーチ「ポーサツ・ヘルマン」から指導を受けました。ヘルマンはオーストリーの金メダリスト・カイザーの称号をもつ「フランツ・クラマー」のコーチでもあります。フランツ・クラマーがWCデビューした年です。

ヘルマンコーチは40代でしたが本人も滑って私たちとのタイム差をベースにトレーニングを組み立てていたと思います。トレーニング前半はSL(約40旗門)で約1秒遅れていました。アドバイスは細かいことはなく1ヶ月間「ロッカー・ファーレン」だけのアドバイスでした。スタート前にロッカー・ファーレン、目と目が合うとロッカー・ファーレンと言ってくれます。ロッカー・ファーレンとは、「リラックスして滑ろう」です。

一口にリラックスして滑ろうと言われてもてもよく分からず、力を抜いて滑るとスキーがたわまずタイムは出ません。でも毎日、ロッカー・ファーレンが1ヶ月続いたころタイム差は無くなりました。後で考えるとリラックスして滑った結果、どんな状況でも体軸が安定し操作が楽になっていたのです。1ヶ月が過ぎたころに2つ目のアドバイスがありました。「シュネル・ベック」です。2つ目のアドバイスを受けたとき凄く嬉しかった思い出があります(笑い)

シュネル・ベックとは「早く切り換える」ことで切り換える時間を短くすることが課題でした。切り換えるタイミングはポールセットで変わりますが、切り換える時間を短くすると丸い回転弧を描くことが出来るので滑りに余裕が出るのです。毎日、毎日、ロッカー・ファーレンとシュネル・ベックです。

トレーニングの後半でヘルマンとのタイム差は私たちが1秒早くなっていました。2つのアドバイスで2秒短縮したと言えます。この時受けたアドバイスは、私の指導活動のベースになっています。皆さんに何度も同じことをアドバイスするのはヘルマンからの受け売りと言えるでしょう。

転機となったヨーロッパトレーニングから帰国し国内大会では第1シードをキープして1973年の苗場WC大会に出場しています。

誰かって、私ですよ!!! 当時は長髪、無帽が当たり前でした(笑い) 上の写真は国内大会で確か八方尾根で行われたホープ杯です。

もう一つの転機は1975年の苗場WCです。

2度目のWC出場で思いっきり滑った記憶があります。今でもポールに入っていく自分を思い出すことが出来ます。1本目51番スタート、多分30位くらいのタイムだったと思います。(正確ではありません)2本目はスタート順が早くなったこともあり、スタートするときは早くスタートしたいと思うほど楽しい時間でした。スタートして4・5ターンでリズムに乗ったと感じイメージしたラインより少しだけ内側にトライし、中盤の急斜面に飛び込みました。ロッカー・ファーレンとシュネル・ベックが生かされています。

急斜面から緩斜面に移行する勝負所、スキーを縦に向けたまま切り込みました。カービングテクニックが私を支えてくれ加速しながらゴールした時は達成感のせいか体が軽く感じていました。 家族、カザマチーム、選手仲間が見守ってくれたことも一生忘れることが出来ない一瞬でした。

1975年 苗場WC・SL 22位 これが私の競技成績です。22位は決して誇れる成績ではありません。でも、世界で戦ったこと、結果を残せたこと、私にとってはかけがえのない成績です。苗場WCは基礎スキー界に転向する転機になりました。

次回はデモ時代の話題です。

追、皆さん自画自賛ばかりの話で申し訳ありません。