デモ時代は「滑りを見せたい」

皆さん、スキー映画「躍動」にお付き合いいただき有難うございます。

今回はデモンストレーター選考会、基礎スキー選手権、スキー技術選手権に出場しデモンストレーターに選ばれた時代の話を紹介します。 上記の選考会や選手権は現在のように技術選手権とデモ選考会に分かれる前の大会です。 若い人には知らない時代ですよ!!!

1976年にデモ選にデビューする前の話も紹介します。 実はご存じの方もいますが、デビューする3年くらい前にデモ選を観戦しています。 何故かというと姉のヤッケ持ちに行っていました。 プルーク・ボーゲンやシュテムターンを見ても何をしているかよく分かりませんでした。(笑い) 

最終種目が制限滑降(ポールでタイム差で点数がつきます)でした。 観戦していた私を見つけて当時、小賀坂スキープロスキーヤー、N氏が小林「前走しろ」と命令が下りました。 大学は違いますが選手時代にお世話になったN氏から言われたら断ることは出来ません。(ハイ)と言ってインスペクションも無しで滑っているのです。

前走で滑っている時、小賀坂チームは優勝確実のF氏を囲んで私の滑りを見せなかったとあとで聞いています。当時No1デモのF氏は私の大先輩でスキー界では超有名人です。 この話はだいぶ後で小賀坂の人に聞いた話です。 小賀坂チームは私の滑りを見ると負けず嫌いのF氏は絶対私より「早く滑ろう」するので見せないようにしたようです。 その作戦は成功しF氏は無事に制限滑降を滑りチャンピオンになっています。

制限滑降は中斜面におよそ30前後の旗門を滑ります。タイムは約28秒~30秒ほどです。 5回の大会ともラップタイムでした。2秒~3秒差でしたがポイントも2・3点だったと思います。(???)

デモ時代の成績をお知らせします。

1976年 5位     1977年 予選総合滑降中に腰を痛めリタイア   

1978年 8位(躍動) 

1979年 7位(ハロー・アメリカ)  

1980年 7位?(ホワイト・ジェット) 

1981年 8位?(スーパー・スキー) 実は総合成績を覚えてていないのです。

写真は1978年の表彰式。 右側のチャンピオンは八方尾根SSの丸山氏(貴雄君のお父さん) 左側の8位が私です。

上の成績で不思議に思った方いますか!!! 初年度の成績が5位 基礎スキーが何も分からない時です。 その後は5位以下です。デモに選ばれて合宿で教わり基礎スキーを習得しているのですが、成績は落ちているのです。 何故でしょう????

 

基礎スキーに転向した時に目標にしたのが2つあります。1979年の蔵王インタースキーに出場し世界のデモと競いたい。もう一つが全基礎スキーヤーに私の滑りを「見せたい」でした。(競技では当たり前の滑りです)

見せたいのでスタートからゴールまで全力で滑り観客の反応を気にしていました。観客の皆さんは正直です。良い滑りの時は拍手です。(当時はジャッジマンの邪魔になるので拍手は無い時代です) でも思わず拍手してくれる人達もいました。反応を気にしていたので点数は見ても聞いてもいません。

見せたいために工夫したこともあります。 5人のジャッジマンの真ん中がC審ですね。このC審の前に各社のカメラマンがいます。 見せたい対象は現場にいる人と、もう一つはカメラレンズの奥には何万人もの読者がいてその人たちにも「見せたい」と思っていました。 そのための作戦としてスタート位置とC審をフォールラインに左右対称となる滑りをしていました。

急斜面ウェーデルン種目はランダムなコブ斜面です。 この種目でもフォールラインを外さず滑ります。 カメラマンはレンズを上から下に動かすだけです。左右に振ることはありません。 予選含めて10本ほど滑りましたがフォールラインを外していません。(中里でこの練習をしていましたから)

「躍動」では急斜面ウェーデルンの映像がありません。申し訳ありません。 

下の写真は私にとって2番目に失敗した時の映像で兎平の総合滑降です。1番目は黒菱の総合滑降、ガスの中で転倒した時です。ゴールから見えないところで証人はわずかです。左スキーが外れて上にあるためそのまま滑ってゴールしました。 ゴールしてから観客は片スキーに気づいたようです。(中里でこの練習をしていましたから)

大会でスキーの滑走面を見せたのはこれだけです。腰を痛めた後の滑りでも見せませんでした。  私としては最悪の滑りです。

この映像を撮ったカメラマンが誰か分かりませんでした。そのカメラマンが躍動を作ってくれたフエダプロダクションのO氏だと後から分かり次回作のカメラマンに私から希望しました。

次回はハロー・アメリカですね。